この10年ほどで、人々のお金の使い方は静かに、しかし大きく変わりました。
モノを買うことがなくなったわけではありません。
ただ、「本当に良かった」と語られるのは、新しいスマホや靴ではなく、
- 並んででも行った没入型の展覧会
- 友人と訪れたフェスやポップアップイベント
- 旅先で立ち寄ったホテルのルーフトップバー
といった「体験」であることが多くなっています。
このシフトを表す言葉が、「体験経済(エクスペリエンス・エコノミー)」 です。
もしあなたが、商業施設、観光施設、ホテル、ブランドの旗艦店、オフィスやワークプレイスなどを運営しているなら、この体験経済を理解し、味方につけられるかどうかで、
- 「たまたま立ち寄られる場所」になるか
- 「わざわざ選ばれる目的地」になるか
が大きく変わってきます。
このガイドでは、次のポイントを整理します。
- 体験経済とは何か
- なぜ「モノ」より「体験」が選ばれるのか
- 施設・デスティネーションにとって何が変わるのか
- 4つの体験タイプ(エクスペリエンスの領域)
- 日本の市場・価格感覚も踏まえた、インタラクティブ&没入型インスタレーションの活用法
体験経済(エクスペリエンス・エコノミー)とは?
「エクスペリエンス・エコノミー(Experience Economy)」 という言葉は、1990年代後半にジョセフ・パインとジェームズ・ギルモアによって提唱されました。
彼らは、企業が価値を生み出す段階を次のように整理しました。
- コモディティ – 原材料(コーヒー豆、砂糖、小麦など)
- モノ(製品) – 加工された商品(挽いたコーヒーの粉)
- サービス – 何かをしてくれること(カフェで淹れてもらう一杯のコーヒー)
- 体験 – サービスの周りにストーリーや演出を加えたもの(音楽・照明・インテリア・接客・ブランドストーリーまで含めた、特別なコーヒータイム)
体験経済では、企業や施設は「何を売るか」だけでなく、
「そこで過ごした時間がどんな記憶として残るか」 で競争するようになります。
「チケットを買った」ではなく、
「この前行ったあの展示、覚えてる?」と語られるかどうかです。
なぜ「体験」が選ばれるのか
体験がモノより重視される背景には、大きく3つの理由があります。
1. 体験は、時間が経つほど価値が増す
心理学の研究では、モノの購入よりも体験への支出の方が、長期的な満足度が高い ことが一貫して示されています。
新しく買ったモノは、数週間もすれば「日常」に溶け込みます。
一方で、特別な体験は、何年経ってもふとした瞬間に思い出され、話題になります。
日本でも、
- 学生時代のライブ
- 家族旅行の思い出
- 友人と行ったテーマパーク
のような「体験」が、長く語り継がれます。
良い体験は、現場を離れたあとも、思い出されるたびに価値が積み上がっていく のです。
2. 体験は、SNS時代の「自己表現」になる
SNSは、体験を一種の「社会的通貨」にしました。
夜景も、デザインされたロビーも、プロジェクションマッピングも、
今やただの風景ではなく、写真や動画の背景として機能します。
- 「今ここにいます」
- 「この人たちと一緒にいます」
- 「こんなライフスタイルを送っています」
というメッセージを、インスタグラム・TikTok・X(旧Twitter)などで発信するうえで、
“映える瞬間” を提供できる場所が選ばれやすくなっています。
ブリーフィングで「インスタ映え」「TikTok向き」といった言葉が出てくるのは、そのためです。
人々はシェアしたくなる瞬間 を求めており、それを生み出せる施設が自然とプロモーションの恩恵を受けます。
3. 支出の配分が「体験側」にシフトしている
観光・インバウンド・エンタメに関する各種調査を見ると、次のような傾向があります。
- 旅行やお出かけの回数を「減らす」のではなく、頻度を保ちつつ中身を厳選 している
- 特にZ世代や都市部の若年層・富裕層は、ユニークな体験への支出を優先 しやすい
- 「ここでしかできない体験」であれば、1,000〜3,000円程度の上乗せ料金でも許容する 人が少なくない
つまり消費者は、印象に残らないモノへの支出を抑え、そのぶん「体験側」に予算を寄せている のです。
体験経済が、施設・デスティネーションにもたらす意味
次のような領域で事業をしているなら、あなたはすでに体験経済のど真ん中にいます。
- 商業施設・ショッピングモール・フラッグシップストア
- 美術館・ミュージアム・科学館・水族館などのアトラクション
- ホテル・旅館・レストラン・バーなどのホスピタリティ
- 観光協会・DMO・自治体によるシティプロモーション
- オフィス・ワークプレイス(社員・来客の体験価値)
問題は「体験経済に関係あるかどうか」ではなく、
「意図して体験を設計しているか、それとも成り行きに任せているか」 です。
これからの施設は、次のような観点だけで評価されるわけではありません。
- 店舗数・テナント数
- 商品の価格や品揃え
- 駅からの距離などの利便性
それに加えて、次のような問いが投げかけられます。
- ここで過ごす時間は、どんな感情を生むか
- ただ「見る」だけでなく、何が「できる」のか
- 帰宅後に、人に話したくなるストーリーがあるか
- Web・SNS・チケット購入〜当日の導線まで、デジタルとリアルがどれだけ自然につながっているか
4つの体験タイプ(エクスペリエンスの領域)
パインとギルモアは、体験を4つの「領域(リアルム)」に分類しました。
多くの優れた施設は、このうち複数を組み合わせています。
1. エンターテインメント(Entertainment)
来場者は主に「見て・聴いて」楽しみます。
- ロビーでの生演奏やパフォーマンス
- 建物外壁へのプロジェクションショー
- 座って鑑賞するタイプのデジタルアート
シンプルですが、ストーリーテリングと演出がしっかりしていれば、大きな感動を生みます。
2. エデュケーショナル(Educational)
来場者が、体験を通じて「学ぶ」領域です。
- 触れる・動かすことでコンテンツが変化するインタラクティブ展示
- エネルギー利用や交通量、海洋環境などのデータを可視化するインスタレーション
- ワークショップやハンズオンのデモンストレーション
ミュージアム・科学館・企業ミュージアム・ESGやサステナビリティを伝えたいブランド などに特に相性の良い領域です。
3. エスケーピスト(Escapist)
来場者が物語世界の中に「没入」し、現実から一歩離れる体験です。
- 歩いて進むタイプの没入型ルーム(マルチルーム構成など)
- 音・光・映像・香りなどを組み合わせたマルチセンサリー・ジャーニー
- ARやスマホアプリを使った館内クエスト
ここでは来場者は「観客」ではなく、物語の登場人物の一人 として振る舞います。
4. エステティック(Aesthetic)
来場者が、美しい空間や雰囲気に「浸る」領域です。
- 光のレイヤーまで設計されたホテルのロビー
- ライトアップとサウンドスケープで演出されたルーフトップ
- 最小限の造作で、街の眺望を額縁のように切り取る回廊
ここでは、光・音・素材・構図 の設計が、「ここにずっといたくなる」感覚を生み出します。
4つすべてを常に満たす必要はありません。
しかし、自分たちの施設が今どの領域に強く、どこに余白があるかを整理することで、どこにインタラクティブや没入型コンテンツを足せば効果的か が見えやすくなります。
体験経済に対応した設計がもたらすビジネス効果
これは「お客様に喜んでもらう」だけの話ではありません。
体験設計は、ビジネス指標にも直結します。
1. 滞在時間(Dwell Time)の増加
「見るだけ」から、「やってみる」「撮ってみる」「シェアしてみる」が増えると、滞在時間が自然に伸びます。
- インタラクティブインスタレーションを何度も試す
- 友人や家族とポーズを変えて写真を撮る
- 映像や音の変化を確認しながら、その場で話し込む
結果として、飲食・物販・追加コンテンツへの支出 が増えやすくなります。
日本の商業施設でも、体験型コンテンツの導入により、同じフロアの売上や客単価が伸びた事例が増えています。
2. 価格に対する許容度(プライシングパワー)の向上
記憶に残る体験は、「単なるサービス」と比べて価値が高く感じられる ため、価格設計にも余裕が生まれます。
- 夜の特別演出付きチケットを、通常より500〜1,000円高く設定 する
- ルーフトップのドリンクを、周辺エリアより少しプレミアムな価格帯 にする
- 宿泊プランに「体験コンテンツへの優先入場」や「限定コンテンツ」などを組み込む
日本のゲストは価格に敏感ですが、「ここでしか味わえない」「誰かに話したくなる」体験であれば、多少の上乗せは十分に受け入れられます。
3. 自然発生的なリーチ(UGC・口コミ)
写真・動画撮影を前提にデザインされた体験は、ゲストを自発的なPR担当に変えてくれます。
- ハッシュタグ付きの投稿やリール
- Google マップ・食べログ・Tripadvisor などでの高評価レビュー
- 友人・家族へのおすすめ
広告費をかけずに得られるこのリーチは、信頼度も高く、長期的なブランド資産になります。
4. ロイヤルティとリピート率の向上
体験がその人の個人的なストーリーの一部 になると、
- 「次は家族を連れてきたい」「友人とまた来たい」と考えてくれる
- 記念日や特別な日の行き先として、優先的に候補に挙がる
- シーズンごとの新しいコンテンツにも、期待を持ってリピートしてくれる
一度きりの来場ではなく、継続的な関係性 へとつながっていきます。
インタラクティブインスタレーションは、体験経済への最短ルート
インタラクティブ&没入型インスタレーションは、体験経済の考え方を、実際の空間に落とし込むための非常に強力な手段です。
例えば、次のようなことが可能になります。
- これまで「通路」「待合スペース」「デッドスペース」だった場所を、目的地に変える
- 抽象的なブランドストーリー(サステナビリティ、先端技術、日本らしさ、地域性など)を、触れて遊べるコンテンツ として具現化する
- 誰でも自然に写真・動画を撮りたくなる、分かりやすい撮影ポイント を用意する
- 季節やイベントに応じて、コンテンツの内容や振る舞いを柔軟にアップデート できる
具体例としては、
- 人の動きに反応して光と音が変わるインスタレーション
- 天気・交通量・都市のエネルギーデータなどと連動するプロジェクション
- 身振り手振りや声、スマホと連携して変化するデジタルアート
- 既存の建築の上にARレイヤーを重ねて、建物自体を「語る存在」にする
などが挙げられます。
来場者を 「観客」ではなく「参加者」 にすること。
これこそが体験経済の中心的な考え方です。
記憶に残る体験をつくるための5つの原則
インスタレーションでも、空間演出でも、シーズナルイベントでも、次の原則を押さえると、体験経済の時代にフィットしたコンテンツになりやすくなります。
1. まず「どんな感情を生みたいか」を決める
最初の問いは、「何を作るか」ではなく、
「どんな感情を感じてほしいか」 です。
- 驚き・ワクワク・高揚感
- 落ち着き・安らぎ
- 誇り・つながり・共感
日本の文脈では、「癒やし」「非日常」「日本らしさ」「地域らしさ」なども重要なキーワードになりやすいでしょう。感情が決まると、それに合わせてインタラクションやビジュアルの方向性が自然と定まります。
2. 参加の仕方を、とにかくシンプルにする
良いインタラクションは、説明がなくても直感的に分かります。
- 近づくと → 何かが起こる
- 手を振る・足元のエリアに立つと → 映像や音が変わる
- QRを読み込むと → 追加のレイヤーが開く
長い説明文や複雑な操作は、日本のゲストにとってもハードルになります。
「何となくやってみたくなる」 レベルのシンプルさが理想です。
3. シェアされることを前提に、でも押し付けはしない
次の観点を意識すると、自然とSNSでシェアされやすくなります。
- 構図:スマホの縦画面・横画面のどちらでも、1枚で「何が起きているか」が伝わるか
- 分かりやすさ:3秒の動画でも「面白さ」が伝わるか
- 照明:フラッシュを焚かなくても、人の顔とコンテンツの両方がきれいに写るか
「撮影OK」「#○○」などの小さなサインは有効ですが、必要以上に「撮ってください」と押し付ける必要はありません。自然に撮りたくなる状況 をつくることが大切です。
4. デジタル体験とリアル体験をつなぐ
多くの来場者にとって、体験はすでに現地に着く前から始まっています。
- 検索結果やGoogle マップの口コミ
- SNSで見かけた写真・動画
- 公式サイトやチケット購入ページ
そして、体験の後も、
写真を整理したり、投稿したり、レビューを書いたりと、デジタル上で続いていきます。
オンラインで見たイメージと、現地で感じる体験がきちんとつながっているか。
インタラクティブインスタレーションは、その 「橋渡し」 としても機能します。
5. 「変化させる余白」をあらかじめ設計しておく
体験経済の時代、コンテンツはすぐに「見慣れたもの」になります。
だからこそ、初期設計の段階で次のような余白を持たせておくことが重要です。
- シーズンごと・イベントごとにコンテンツを切り替えられる構造
- スポンサーやブランドとのタイアップを、ビジュアルやデータレイヤーの変更だけで実現 できる仕組み
- 新しいモードや「第2章・第3章」を追加しやすいアーキテクチャ
これにより、大規模な作り直しをせずに、新鮮さを保ち続ける ことができます。
日本の施設が始めやすいロードマップ
「言っていることは分かるけれど、どこから始めればいいのか分からない」という方に向けて、シンプルなステップを紹介します。
目的をはっきりさせる
滞在時間の延長か、ブランドストーリーの可視化か、PR・話題づくりか、スポンサー価値の向上か、社員やテナント向けの体験改善か——。
日本市場では、目的によって許容される予算規模や回収のタイミング も変わってきます。来場者のジャーニーを可視化する
WebやSNSで知る → 情報収集 → チケット購入 → 来場 → 滞在 → 帰宅後のシェア
という一連の流れの中で、「何も起きていない時間・場所」 を探します。戦略的に「1か所」を選ぶ
ロビー、エスカレーター前、屋上、駅からの動線上のプラザなど、
まずは1か所を 体験のアンカー(拠点) として変えてみます。その場所で生み出したい感情とストーリーを決める
ここは「ワクワク」なのか、「癒やし」なのか、「日本らしさ・地域らしさ」なのか。
それに合わせて、音・光・動き・データを組み合わせていきます。インタラクティブの手段を検討する
センサー、ライト、プロジェクション、LED、AR、ジェネレーティブビジュアルなど、
スペースの制約や施工条件、日本の安全基準を踏まえながら最適なメディアを選びます。簡易プロトタイプでテストする
小さなテストでも、次のようなことがすぐに分かります。- 直感的にやり方が伝わるか
- 子どもから大人まで楽しめるか
- どの瞬間でスマホが取り出されるか
ローンチ後も観察し、コンテンツをチューニングする
実際の来場者の動きや会話を観察し、コンテンツの速度・音量・明るさ・インタラクションの分かりやすさを調整していきます。
「体験経済」を、実際に歩ける空間に変えていく
体験経済は、抽象的なコンセプトではありません。
すでに日本でも、人々がどこへ出かけ、何をシェアし、何を覚えているかに大きな影響を与えています。
商業施設、ホテル、観光地、オフィス、公共空間——
どの領域においても、チャンスは同じです。
人が「見に行く」場所から、
人が「体験しに行く」場所へ。
インタラクティブインスタレーションは、その変化を最もダイレクトに形にできる手段のひとつです。
ロビーや通路、広場などを、人が集まり、遊び、語り、また帰ってきたくなる場所へと変えていくことができます。
次のリニューアルや新施設、フラッグシッププロジェクトを検討しているのであれば、
「床面積」や「テナント数」だけでなく、「どんな体験を設計するか」 からスタートすることをおすすめします。
よくある質問
Q. 体験経済(エクスペリエンス・エコノミー)とは何ですか?
体験経済とは、消費者のお金の使い方が「モノ」や基本的なサービスから、「記憶に残る体験」へとシフトしている状態を指します。企業や施設は、商品を売るだけでなく、そこで過ごす時間がどれだけ感情に響き、思い出として語られるかという“体験価値”によって差別化していきます。
Q. なぜ体験経済が、商業施設やブランドにとって重要なのですか?
体験経済は「滞在時間」「客単価」「ロイヤルティ」に直結するため、商業施設やブランドにとって非常に重要です。来場者が「ここでしか味わえない体験」を感じられると、長く滞在し、飲食・物販への支出も増え、再訪や口コミ・SNS投稿にもつながります。
Q. 体験経済は、消費者の行動にどのような影響を与えますか?
人々は、追加のモノを買うよりも、旅行やイベント、没入型展示などの「特別な時間」にお金をかけるようになります。ストーリー性や参加性があり、写真や動画に残したくなる場所を積極的に探し、そのために他の支出を抑えることも少なくありません。
Q. 体験経済の具体的な事例にはどのようなものがありますか?
没入型のミュージアム展示、インタラクティブなライティングショー、話題性のあるホテルルーフトップ、体験型フラッグシップストア、季節ごとの街中インスタレーション、テーマ性のあるポップアップなどが事例です。いずれも「空間そのもの」を体験としてデザインし、単なる機能的な場所以上の価値を生み出しています。
Q. インタラクティブインスタレーションは、体験経済にどのように貢献しますか?
インタラクティブインスタレーションは、来場者を「見るだけの観客」から「参加するプレイヤー」へと変えます。ロビーや通路、待合スペースなどを、遊び・共創・撮影の場に変えることで、滞在時間を伸ばし、SNSで共有したくなる体験を生み出し、体験経済を施設の中で具体的な形にします。
Q. 体験経済は一時的なブームですか?
いいえ。一過性のブームではなく、サービスのコモディティ化やオンライン完結型サービスの増加を背景とした、構造的な変化と考えられています。リアルな空間でしか味わえない記憶に残る体験は、日本の施設やデスティネーションにとっても、今後ますます重要な差別化要因になっていきます。

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